信楽焼 さや(原鉢)


さや(匣鉢)とは
1. 時代は江戸中期から明治時代。信楽町勅旨という所にて「小物づくり」といわれる神仏具が登窯で盛んに焼かれたようです。その小物づくりは信楽では産出されない磁器粘土で焼かれ、それまでの無釉の焼き締め窯変のでる焼成では白い磁器が焼けなかったのです。
2. 白い磁器を焼くには、さや(匣鉢)といわれる容器に入れ積重ね直接炎が当たらないよう保護する役目の道具を使います。古くは中国 景徳鎮で発展し、朝鮮半島を経て九州に伝来した登り窯。その登り窯技術の中にさや(匣鉢)の技術もあったと思われ、磁器を焼くためにはどうしてもさや(匣鉢)が必要であったわけです。
3. 信楽町勅旨にはその頃の窯の遺跡が残されており、近年その遺跡より大量のさや(匣鉢)が掘り出されました。
弊園入手しまして販売しておりますが、そのさやには登り窯で焼成された窯変の様々な姿が写し出され、そのさや(匣鉢)を今一度見つめ直して見ました。
窯内部にてさやは何十段にも積み重ねられたものと思われます。
薪の灰が自然釉となり、高温にて溶けだしビードロとなったさやです。
酸化焼成による緋色(火色)が見られるさや(匣鉢)です。粘土も掘り出した状態の土を使用。含まれる長石がふくれて「石ハゼ」或は「あられ」といわれる景色となっています。
炎が直接当らない陰のところはいわば「ぬけ」のようになって窯変が見られません。おそらくはこのさや、1回の使用でダメになったのでは。
そのさやの底を見ますと、その当時の文化財ともいうべき神仏具の焼き損じが見られます。耐火度の低い粘土を使ったさやだったのか高温に耐えられなかった状態がよくわかります。
そして内側にある神仏具もその焼成時にさやが押しつぶされ、その圧力で原形をとどめていない状態が見られます。
この神仏具の底は緋色(火色)をしているところから半磁器の粘土を使用したものか、或は窯内部で早くにさやが崩れたものなのか、いろいろとその当時の登り窯による職人達の苦労が忍ばれます。
これらの神仏具が上部のさや(匣鉢)にくっつき押しつぶされている状況からみまして、この3点の神仏具が入れられていたさや(匣鉢)はかなり押しつぶされたものと思われます。耐火度の低い粘土であっただろうと思われ、当時の技術と知識ではどうすることもできないことがよくわかります。
このさや(匣鉢)は何回も使用されたのではと思われますが、今となってはと思います。
かなりの高温になった窯内部に置かれたと見え焼けただれているといいますか、こげている様子がよくわかるさや(匣鉢)です。
灰が自然釉となり、ビードロとなり、更に窯内部の下部にさや(匣鉢)が置かれたと思われ、薪のおきによってそのビードロが「こげ」となっている究極の窯変が起きた現象が見られるのです。信楽胎土に見られる長石がふくれ「石はぜ・あられ」と会間ってすばらしい景色となっております。今日窯変による作品が作家達によって古信楽の復活がなされていますが、このレベルの作品に出会うことはなかなか見ることが少ないのではと思われ、窯変による信楽焼の解説する当方にとってはありがたいさや(匣鉢)でもあります。